吉見町から武蔵国の成立を考える

投稿者: | 2018年5月18日

古墳時代後期で、継体天皇の子とされる安閑天皇元年(534年)に、埼玉県域の有力者で大げんかがありました。
笠原直使主と、同族小杵との争いで、「武蔵国造の乱」と呼ばれています。
(笠原氏は、鴻巣市笠原を本拠地とし、さきたま古墳群の被葬者と推定されています)
小杵は、上毛野君の力を借りて使主を倒そうとしたのですが、使主は大和朝廷の力を借りて小杵を誅伐したといいます。(「君」「直」は姓[かばね]で、「君」は大国であった有力者に与えられています)
使主は、大和朝廷に借りを作ってしまい、4ヶ所の屯倉を大和朝廷に献上しています。

  • 横渟(よこぬ)・・・横見郡(概ね吉見町)に比定
  • 橘花(たちばな)・・・橘樹郡(概ね川崎市)に比定
  • 多氷(おおい)・・・多磨郡(概ね東京多摩地区)に比定
  • 倉樔(くらす)・・・久良岐郡(概ね横浜市南部)に比定

橘花・多氷・倉樔は、鴻巣市笠原の地から遠いのですが、横渟だけは鴻巣市笠原の地から見ると荒川の対岸に位置、笠原直使主から考えると広大な田園地帯の埼玉郡域(行田・加須・羽生など)を守ったとはいえ、喉元に突き付けられた刃のような感じがしたかもしれません。

その頃は武蔵国の地域だけでなく、全国的に数多くの屯倉が設置され、また筑紫君磐井の乱もあったので、寒冷期で飢饉が起った時期だったのかもしれませんし、大和朝廷が中央集権化を強力に進めていた時期なのかもしれません。(参考:4~ 10 世紀における気候変動と人間活動
その後、大化の改新や朝鮮半島の動乱などを経て、大和朝廷の諸制度が確立、横渟屯倉は横見評(郡)として木簡に記載され、大宝律令(701年)により横見郡となり、江戸時代末期まで続くことになります。
大和朝廷の直轄領だったせいか、横見郡には延長5年(927年)に作成された『延喜式』の神名帳(当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧)に3社記載されています。

御所古墳群に鎮座する横見神社と境内社

御所古墳群に鎮座する横見神社と境内社

この3社は、吉見丘陵の東側山麓に連なって鎮座、埼玉県北部には比較的多くの延喜式神名帳所載の神社が鎮座しているのですが、直線距離にして約2km弱の中に3社が鎮座しています。

武蔵の国の地域が大和朝廷に組み込まれていくきっかけとなったのが「武蔵国造の乱」なのかもしれませんね。

武蔵国に設置された4つの屯倉ですが、(比定が正しければ)多氷は多磨郡となり、聖武天皇(724-749)の代には多磨郡に国分寺・国分尼寺が建立、武蔵国府が置かれ、(伝承では)小野神社が一の宮となり、(一の宮から六の宮までを一か所で参拝する)総社も府中市(大国魂神社)に置かれることになります。