吉見町から武蔵国の成立を考える

投稿者: | 2018年5月18日

埼玉の吉見丘陵(比企郡吉見町)東側山麓には、延長5年(927年)に作成された『延喜式』の神名帳(当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧)に記載のある3社が、直線距離にして約2km弱の間に連なって鎮座しています。

御所古墳群に鎮座する横見神社と境内社

御所古墳群に鎮座する横見神社と境内社

埼玉県北部には延喜式神名帳所載の神社が比較的多く見受けられますが、このように至近距離に複数社が鎮座するのは特異です。これはもしかして、武蔵国が成立した契機とされる「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん)」と関わりがあるのではないかと考えました。

後生の大和朝廷へとつながるヤマト王権が支配域の拡大を進めていた古墳時代後期、安閑天皇元年(534年)、現在の埼玉県鴻巣市笠原を本拠地として、後に武蔵国とされる地域に勢力を及ぼしていた豪族、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が対立。小杵は、現在の群馬県を拠点とした大豪族、上毛野君小熊(かみつけのきみおぐま)の力を借りて使主を謀殺しようとします。それを察知した使主はヤマト王権を頼り、その力を借りて小杵を誅伐しました。これが「武蔵国造の乱」です。

使主(おみ)はこうして武蔵国造の地位を得ますが、その代償は大きく、以下4地域を「屯倉(みやけ)」としてヤマトに献上することとなります。

  • 横渟(よこぬ)・・・横見郡(概ね吉見町)に比定
  • 橘花(たちばな)・・・橘樹郡(概ね川崎市)に比定
  • 多氷(おおい)・・・多磨郡(概ね東京多摩地区)に比定
  • 倉樔(くらす)・・・久良岐郡(概ね横浜市南部)に比定

「屯倉」とはヤマト王権の直轄領のこと。つまり、ヤマトはこの乱に荷担することで、それまで覇権が及んでいなかった東国に支配の楔を標したのでしょう。このことが、やがては大和朝廷政権下に組み込まれる武蔵国の起こりであったと考えられます。

4つの屯倉のうち横渟屯倉は、比定が正しければ笠原氏が拠点とした鴻巣と荒川を挟んで対岸、すなわち吉見町に位置します。使主は国造として広大な田園地帯の広がる埼玉郡域(行田・加須・羽生など)をはじめとする武蔵国の地方統治権は保ったものの、それと引き換えにヤマト王権による東国支配の端緒を開いたばかりか、対岸の吉見町を屯倉とされたことで、喉元に刃を突き付けられているような感じがしたのではないでしょうか。

吉見丘陵東麓に鎮座する上記3社はこれより200年後の創建ながら、まさに鴻巣の笠原氏を封じているようにも思えます。

ちなみに、笠原氏は埼玉(さきたま)古墳群の被葬者と推定されています。また「君(きみ)」「直(あたい)」は、古代豪族の政治的・社会的地位を示す姓(かばね)で、「君」は大国の氏族に与えられています。小杵が頼ったとされ上毛野氏は、崇神天皇の皇子豊城命を始祖とし代々「君」を世襲しており、小熊は後に中央官人にその名が見られます。

なお、「武蔵国造の乱」と4屯倉については『日本書紀』にその経緯が記述されていますが、史実性は未だ明らかではないようです。

また、横渟以外の3屯倉は吉見や鴻巣からは遠方ですが、このうち多氷を多磨郡と比定するならば、聖武天皇(724―749)の代には多磨郡には国分寺・国分尼寺が建立、武蔵国府が置かれます。そして伝承では、)小野神社が一の宮となり、総社(一の宮から六の宮までを一か所で参拝する)が現在の東京都府中市(大国魂神社)に置かれることになります。