居眠り磐音江戸草紙(04)雪華ノ里

第一章紅灯丸山驟雨-P7

諏訪大社-P21
重陽の節句の九月九日、諏訪大社で催される長崎くんちのしゃぎりの調べですよ

崇福寺・興福寺・福済寺-P28
それに唐人は崇福寺、興福寺、福済寺など唐寺を建てて、切支丹ではないことを長崎代官に繰り返し訴えたせいもあって

興福寺-P48
禅宗臨済派東明山興福寺は、長崎の人々には南京寺として親しまれてきた。元和六年(一六二〇)に渡来してきた真円が、元和九年(一六二三)に開祖したとされる。「長崎誌」の寺院開祖の部にも、「・・・元和六年、唐僧真円当表に渡り来り、三カ年の間に、今の興福寺境内に庵を結ひ住居せり、其頃邪宗門御禁制厳萬なりし時節、日本渡海唐人の内、天主耶蘇教を信敬する者混し来る由風聞専らなりし故、南京方の船主共相議し、唐船入津の最初に、天主教を尊信せさるや否やの事を、緊しく穿鑿墜け、且つ海上往来平安の祈願・・・」

第二章赤間関討入船-P72

永照寺-P95<博多>
京町の、永照寺裏に行きゃあくさ、分かろうもん

赤間神社-P130
そなたはんの雲をな、赤間神社の帝にお祈りいたします

第三章洛北軍鶏試合-P134

出雲大社-P140
急ぎ旅の磐音が回り道をして出雲大社に参拝しようとしたのは、〜。陰暦十月は神無月ともいう。だが神々が集まる出雲にかぎっては、神在月というのである。神の故郷の出雲大社は、古の昔にも高さ三十二丈(およそ九十六メートル)の壮大な、高櫓の神殿が天に聳えていたという。八雲山の南麓に鎮座する出雲大社の本殿は大社造り、延享元年(一七四四)に造り替えられたものだ。

十輪寺、勝持寺-P148
坂崎磐音が山陰路の最後の難所の老ノ坂を越えたのは、葉月も明日で終わろうという日のことだ。十輪寺、勝持寺を横手に見て、大野原を過ぎ、樫原を抜けた。

本願寺-P161
翌朝、朝餉の後源之丞は磐音を連れ出した。連れていかれたのは西六条のお西さん、本願寺北御門だ。お西さんは、京の人間が浄土真宗本願寺派の西本願寺を呼ぶときに使う。むろん宗旨は親鸞上人の弘法である。

円光寺-P175
磐音はすぐには見物席に戻らず、円光寺の本堂前の階段でしばらく時を過ごした。

第四章残香金沢暮色-P201

永平寺-P201
ここは北国街道から外れた曹洞宗大本山、吉祥山永平寺の修行堂である。〜永平寺は越前の領主波多野義重が道元禅師に帰依してこの地を寄進した。そこで道元は、寛元元年(一二四三)に宇治の興聖寺から門弟らを率いて、下向してきた。永平寺と改められたのは三年後のことだ。道元はこの地にある十年、門弟の指導に精魂を傾けた。が、元来北陸の地は蓮如の吉崎御坊の建立によって、真宗信仰が農村の隅々まで浸透していた。それゆえ、曹洞宗が格別この地に勢力を張ることはなかった。だが、元和元年(一六一五)、徳川家康は「永平寺諸法度」を下して、永平寺を曹洞宗寺院の総取締りに命じた。このことによって能登の総持寺とともに曹洞禅の中心になったのである。

実性院-P204
ならば、今宵は大聖寺の実性院にお泊まりなされ。永平寺の道世からと申さば、許されよう

波着寺-P241
屋敷が途切れ、波着寺という門前に出た。(金沢)

尾崎神社・神護寺-P253
尾崎神社、神護寺の間を抜けて、城の南側を廣坂へとかかる。するとさらに雪が激しく降ってきた。

第五章雪舞待合ノ辻-P269

湯島聖堂-P271
駒込追分で七つ(午後四時)の時鐘を聞いた。湯島聖堂から神田川を渡れば、もはや懐かしい江戸の町だ。

浅草寺-P293
磐音と柳次郎の二人は黙したまま、切り取られた株が並ぶ浅草の田圃の畦道を浅草寺へと抜けた。

待乳山聖天社-P315
待乳山聖天社下の山谷堀には船宿が雲集して、遊客はここで船を降りて土手八丁を歩くことになる。

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