居眠り磐音江戸草紙(06)雨降ノ山

第一章隅田川花火船

神田明神P36

神田明神の拝殿に、女難が一刻も早く去りますようにとお祈りした磐音は、人気のない回廊の一角に座した。

寛永寺P43

丑松とお兼が新所帯を持った寛永寺下の坂本村まで行って調べてきましたのさ

回向院P68

柳次郎とは回向院前で左右に別れた。

第二章夏宵蛤町河岸

富岡八幡宮P120

一人になった幸吉は、さてと呟くと、横川の東の屋敷町の間の道を富岡八幡宮に向かった。

正善坊P137

おそめが声をかけたのは、正善房の門前だ。

稲荷社P144

幸吉はそのとき、深川蛤町西側の裏長屋の木戸口を見通す稲荷社にしゃがんでいた。
深川大和町の材木問屋飛騨屋が持つ家作の一つは、平野町の添地に接して建っていた。

第三章蛍火相州暮色

池上本門寺P165

往路は品川宿から池上本門寺に立ち寄り、二子の渡しから溝ノ口に抜けて大山道の一つ、矢倉沢往還を辿ろうということで、吉右衛門と磐音の間で話が決まっていた。

雨降山大山寺P167

雨降山大山寺の参詣は夏の二十日間だけ許された。
六月二十七日の初山から七月十七日の盆山までの日限を四期に分け、二十七日から月末までを初山、七月一日から七日を七日堂、八日から十二日を間山、十三日より十七日を盆山と称した。

池上本門寺P175

一行は、品川宿を抜けた後、本門寺へ向かう池上道を出て、本門寺に到着した。
弘安五年(一二八二)、日蓮は病平癒のために身延山久遠寺を出て、常陸の国の隠井の湯へ向かった。その途中、この地に住む熱心な信徒の池上宗仲の屋敷に滞在したが、病を重くして亡くなった。
弘安五年十月十三日と伝えられる。
池上宗仲は、屋敷地を寄進し、日蓮の直弟子の日朗が寺院の設立に力を尽くした。
江戸期に入り、徳川家や大名諸家の信奉を得て、池上本門寺は大いに栄えることになる。

龍昌院P191

一行は、矢倉沢往還と河原の間に建つ龍昌院の境内に駕籠を乗り入れた。

第四章鈴音大山不動

不動堂P228

「こちらの屋敷から不動堂まではどれほどでございますか」
「屋敷から表参道一の鳥居まで半里、一の鳥居から前不動まで二十八町、前不動から不動堂まで十八町、およそ二里の道程です」

阿夫神社

大山の古社を阿夫利神社とか、雨降山大山寺と呼ぶのをご存じですな。夏になると相模平野に入道雲がもくもくと湧きましてな、大山にぶつかって山に雨を降らします。この季節、雨を欲しいのは山ではなく、平地の百姓衆です。そこで百姓衆が大山に降る雨を”私雨”と呼び、大山を”雨降山”とも称したのです

清滝寺P230

関東一円では雨の少ない夏には、まず大山不動院配下の清滝寺で降雨を願い、さらには愛甲郡の田代の龍神に雨を願い、それでも駄目なときには、大山石尊大権現にお参りするのです

雨降山大山寺P234

相州大隅郡大山は海抜およそ三千七百余尺(一二四六メートル)の高さを持ち、天平勝宝(七五二)、良弁僧都によってこの地に雨降山大山寺が開基された。
阿夫利神社の別名を持つ石尊大権現と雨降山大山寺不動尊は、神仏混淆の山である。
寺は真言宗高野山に属し、その寺領百四十八石、本尊不動明王の安置された大山の頂の石尊本宮と摂社、中腹の不動堂からなり、別当八大坊を始め、上覚坊、喜楽坊、中之坊、常円坊、橋本坊、宝寿坊、実城坊、授特坊、養智坊、上之院、そして広徳院の十二坊、さらに脇坊など堂坊が建ち並び、それらを含めて一山と数えられた。

金亀山輿願寺P271

宮松どの、江ノ島の姿は水に浮かぶ亀のようだというので、昔から緑の亀とも絵島とも言われるそうな。現生のご利益があるように弁財天を祀ってあって、金亀山與願寺と称されるそうな。

地蔵堂P276

このあたりの坂道を二番坂ともいうが、
「武蔵と相模の国境、境木村といふ。右の方に地蔵堂あり」
と東海道名所図会にも記された場所だ。

第五章送り火三斉小路P287

愛宕権現社P310

弓場家は愛宕権現社の北側にありまして、笹塚様が坂崎さんに屋敷をお教えしておけと言われるので、お誘いに上がったのです

広徳寺P321

下谷広徳寺に魂迎えに行くところよ

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