居眠り磐音江戸草紙(09)遠霞ノ峠

第一章望春亀戸天神P7
普門院P9
普門院は元和二年(一六一六)に石浜から亀戸村に移ってきた古刹である。
その折り、運ばれてきた鐘が隅田川の淵に落ちて、鐘ヶ淵に落ちて、鐘ヶ淵の由来になった寺でもある。さらに慶安二年(一六四九)には朱印高五石が与えられた。

亀戸天神P10
亀戸天神として親しまれる神社は亀戸太宰府天満宮という。
「江戸名所図会」には、
<当社の門前貨料店多く、多々生簀を構へ鯉魚を畜ふ、業平蜆もこの地の名産にして尤も美味なり>
とあるように、広大な敷地の四周に酒楼や料理茶屋が軒を連ねていた。

海晏寺P11
小吉とは花火船事件のとき共に働いて顔見知りとなり、昨秋には品川の海晏寺に紅葉狩りに行った仲でもある。

弥勒寺P33
五間堀の弥勒寺の庫裏に出前だよ

永代寺P45
釣り銭騙りは永代寺門前の川魚料理屋五軒に立て続けに被害を与えた後、ふっつりと途絶えた。

海福寺P68
この界隈は深川冬木町という町名を持っていたが、海福寺をはじめ深川寺町の東側に当たり、町内の住人からは単に、「寺裏」と呼ばれる一帯だ。

第二章仲ノ町道中桜P73
泉養寺P100
その途次、泉養寺に立ち寄った。

第三章春霞秩父鉄道P143
富岡八幡宮P150
六間堀の堀端を猿子橋まで歩いてくると、富岡八幡宮の門前で金貸しとやくざの二枚看板を掲げる権造一家の代貸五郎造が、若い弟分を従えて立っていた。

熊野権現P158
左に向かえば甲州道中、右が、
「甲州裏街道あるいは甲州脇往還」
とも称される青梅道だ。
そのわけは、二つの道がほぼ平行して江戸と甲府を結んでいたからだ。
熊野権現のかたわらを過ぎると急に人家がなくなった。

金剛寺P164(青梅)
金剛寺前の一軒の旅籠に宿を求めたとき、暮れ六つ(午後六時)の刻限を過ぎていた。

常福院P177
小沢峠下まで辿りついたときには、日がとっぷりと暮れようとしていた。そこで予定を早めて峠下の常福院に一夜の宿を請うことにした。

定林寺P180
五郎造の一行は七つ(午後四時)前に、秩父札所の十七番定林寺前に一家を構える夜祭の鳩八一家に到着した。

秩父妙見社P183
師走の初め、秩父大宮郷は秩父妙見社の祭礼に沸く。秩父の夜祭りとして江戸にも知られる明かり屋台が町中に引き回された。この祭りもまた絹太物取引の景気を煽るために江戸の中頃から盛んになった祭礼であった。〜。崇神天皇の時代の創建と伝えられる妙見社の主祭神は、
「八意思金命、知知夫彦命、天之御中主神」
であった。

第四章星明芝門前町P208
広岳院P269<港区か>
三人は曹洞宗永寿山広岳院門前に差しかかっていた。

承教寺P270
三人は広岳院と通りを挟んで向き合う承教寺の塀へと下がった。

第五章八丁堀三方陣P277
根津権現は、日本武尊が東征の折り、武運を祈願して千駄木の地に創建したのが始まりとか。時代が下って文明年間(一四六九〜八七)に太田道灌が社殿を再建していた。
祭神は素盞嗚尊、大山咋命、品陀別命、大国主命、菅原道真公である。
寛文二年(一六六二)、社地近くに屋敷を構えていた甲斐甲府藩主徳川綱重に長子虎松が誕生して、根津権現は虎松の産土神になった。
この虎松こと綱豊が長じて、五代将軍綱吉の養子として西の丸に入り、根津権現は旧甲府藩邸を社地として与えられた。さらに綱豊が家宣として六代将軍の地位に就くと、根津権現の社格も上がった。
社領五百石となった根津権現は京の北野天満宮などを模して、拝殿、本殿、さらには二つの社殿を結ぶ相の間が、藤堂家、浅野家、毛利家などの有力大名家の監督で普請された。

東叡山寛永寺P308
不忍池の北側をそぞろ歩いて、東叡山寛永寺下へと回り込んだ。